2018年は「まじめ」が自分に何をしてきたかに気がつかせてもらえた年でした。

あるNGOの創始者の方が、

「まじめって自分を殺すことですからね」

とおっしゃったのは、ちょうど自分が「まじめ」の大半は実は、裁判官型の妨害者(サボタージュ)の仕業だと気がつき始めたタイミングでした。

昔から習いたかったのになぜか行動しないでいた水墨画。2年半前に引っ越してきた青梅になんと大家の方がいらして、しかも教室を開いておられる。11月、どんな厳しい指導をされるのかとちょっとビクビクしながら、意を決して連絡してうかがうと、

「まじめダメよ」

「まじめ」だと褒められるということを幼いときから繰り返して、すっかり「まじめ」こそがよいことだと思い込んできてしまいました。確かに、みなが「まじめ」であることで、世の中が動きやすくなることはあります。自分自身にとっても、よいこともたくさんあったかもしれません。

でも、「まじめ」の基準はどこから来たのかを考えてみると、親だったり学校や学校の先生だったり、世の中でそういうことだとされていることだったり、つまりは、ほぼすべて、自分の外側からよいとされているものなのです。

「まじめ」なときの自分の心もちは、概して硬いです。「まじめ」だと褒められることを繰り返し、「まじめ」でない自分にダメ出しをする(裁判官サボタージュがダメ出しをする)ことを繰り返しているうちに、まじめだからやるのではなく、自分がやりたいからやること、自分の魂が喜ぶことをするといことを忘れてしまっていました。

そんなことに気がつかされた2018年でした。